窓辺のナマケモノ

日曜プログラマーの徒然草

窓辺の小犬

わが家には子犬が一匹いる。実はすでに17才なので人間でいえば80を超えているだろうから子犬ではないのだが小型犬なので子犬ではなくても少なくとも小犬ではあるだろう。


かつてガラス玉のように透き通った瞳は今は白く濁り、体のあちらこちらに浮腫ができ、足腰もたよりなく、外に出しても歩きもしなくなった。
それでも食欲だけは衰えず、決まった時刻の1時間も前からねだる声に悩まされ、躾のいたらなさに後悔の毎日を送っている。
彼女(メス犬である)を見ていると老いることの醜さを知るとともに、それでも懸命に生きようとする逞しさをも見る思いがする。哲学を語るつもりはないが、生きることとは何かを考えずにはおれない。目が見えないためにトイレの場所が分からず、所かまわず用を足すようになったので仕方なくずっとおむつをしたままの生活。かつては私が帰ってくると気も狂わんばかりに飛び跳ねて喜びを表現していた引き締まったばねのような体は今は見る影もなくだらしなく緊張をゆるめている。呼んでも応えず遊ぶこともしない。食事と用を足す以外はほとんど寝たきりのような生活であっても、昔と同じ量を食べることだけは変わることがない。彼女が死んで後、渋谷のハチ公のように銅像が立つわけでもなく、本になることも、映画になることもない。我々の記憶にしか残らないその生には何の意味があるのだろう。


それは私自身も同じだ。この後よほど大罪を犯さないかぎり死んで名を遺す可能性はゼロに等しく、我が子らの記憶から消えたらそれっきり。私の人生はこの小犬と何ら変わらない。それを知っていても私も彼女と同じく、毎日の食事を楽しみ、やはり今日を生きている。徹頭徹尾凡人であった私の人生に意味などあるはずもない。それでも笑ったり泣いたり怒ったり、感動したり、感謝したり、恨んだり。こんな私でさえ思い起こせばドラマチックな場面はいくらでも湧いてくる。だからといってそこに意味はない。でもそれでいいんだとしたら、人生は何かを残すためではなく、味わうためのものだと言えるのではないか。様々なことがらを思い出すたび、二度と戻らぬ時間と出会いに感傷にひたる自分がいる。

 


幼いころよりキリギリスよりアリの方が偉いと教えられてきたが、毛布の上にくるまって寝ている小犬のしずかな息遣いを見ていると、今はキリギリスも応援したくなる今日この頃である。